みなさんは、コックリさんを知っていますか?70年代に日本で大ブームを巻き起こした都市伝説です。
ブーム全盛期には、全国各地の小学校でコックリさんを行ったことによる集団的錯乱事件が次々と起こっていました。意識を失ったり急に奇行に走ったり、参加者全員が放心状態になったりという具合です。
70年代の大ブームが去って以降も80年代の第二ブーム、映画「学校の怪談」で再ブレイクした90年代の第三次ブームにおいて同じような事件が起こっているため、現在になってもまだ禁止令を敷いている小学校もあるそうです。
ちなみに私は2002年から6年間静岡の小学校に通っていましたが、在校中ずっとコックリさんを禁止されていました。
そんな、一時期全国の小学生を恐怖と混乱に落とし入れたコックリさんですが、実はそのルーツはアメリカにある。という話をご存じでしょうか?
コックリさんとは?そのやり方
コックリさんとは、一種の簡易的な降霊術です。
触媒となる10円玉に狐の霊(浮遊霊や子供の霊という説もあり)を降ろし質問や相談に答えてもらうという、占い的な要素も持っている降霊術といえます。
コックリさんは漢字にすると「狐狗狸さん」と書かれます。これは狐(キツネ)と狗(イヌ)と狸(タヌキ)、三体の動物をあてがったものであり、コックリさんが動物の霊と考えられる所以となっています。
また現代では、「キューピッドさん」「キラキラさま」「エンジェルさま」「守護霊様」「チャーリー」「メアリー」など、数多くの別名が存在しています。
コックリさんのやり方は以下のとおり
- 紙に【はい・いいえ】【鳥居の絵】【0~9までの数字】【あ~んまでの50音】を書き、その紙を机の上に起きます。
- 鳥居の絵の位置に10円玉を置きます。
- 参加者全員の人差し指をその10円玉の上に置きます。
- 参加者全員で「コックリさんコックリさん、おいでください。おいでになられましたら『はい』へお進みください」と唱えます。
- コックリさんが降りてきたら10円玉は『はい』の位置に移動します。
- 何か質問すれば、10円玉が動き回答してくれます
- 終わらせるには「コックリさんコックリさん、どうぞお戻り下さい」とお願いして、10円玉が【はい】に移動した後、鳥居の位置まで戻ってきます。
- 戻ってきたら「ありがとうございました」とお礼を言い、全員で一斉に指を10円玉から離し終了します。
注意点として、途中で指を10円玉から離してはいけません。絶対にです。もし途中で離してしまった場合、その人にコックリさんの呪いがかかり、不幸な目に合うと言われています。
コックリさんが日本で流行した経緯
先述したように、コックリさんは70年代に大流行しました。経緯としてはまず、とある深夜ラジオがコックリさんを紹介したのが始まりだそうです。
その後、日本初のコックリさん入門書である『狐狗狸さんの秘密』が出版され、これが大ベストセラーになりました。
更に、当時大人気だった怪奇漫画『うしろの百太郎』で紹介されたのを機に、少年少女を巻き込む一大ブームになったと言われています。
ですが実際、このブームはコックリさんにおける最初のブームではなかったのです。
真の初代ブームは明治時代
明治17年(1887年)、一隻のアメリカ貿易船が伊豆半島下田沖に漂着しました。下田は1854年の日米和親条約によって日本の各港に先立ち開港し、アメリカ人と交流していました。
そういった経緯から、住民は漂着した人々を温かく迎え入れたといいます。
漂着したアメリカ人は、木でできた一台のボードを持っていました。
そのボードを使って見せると、下田の住民は大いに驚いたそうです。
アメリカ人が母国に帰ったあとも、人々の興奮は収まりませんでした。ボードは瞬く間へ全国に広がっていき、特に「花柳界」つまり芸者さんのお座敷遊びとして流行しました。
そして70年代ブームと同じく、集団錯乱事件が数多く発生したそうです。
これが、コックリさんの真の初代ブームと言われています。
アメリカ人が持っていたウィジャボードとは
漂着したアメリカ人が持っており、後に日本でコックリさんを生むことになるボード。それは、『ウィジャボード』と呼ばれるものでした。
ウィジャボードは【YES・NO】【A~Zまでのアルファベット26文字】が記してあるボードに、プランシェットというギターピックのような形をした器具が付属している、19世紀にアメリカで発売された占い製品です。
[ad] やり方は、ボードの上に置いたプランシェットに参加者全員の指を添え、各々質問していくというもの。
始める前の儀式の有無など細かい違いはありますが、大まかな流れはコックリさんとまったく同じなのです。
では、このウィジャボードがどのような経緯でコックリさんへと変化していったのでしょうか?
きっかけは〇〇がなかったから!?
下田から日本全国に広がっていったウィジャボードですが、もちろんそのままの形で広がったわけではありません。
英語は日本語に改められ、プランシェットの代わりに銅貨などの貨幣が使用されるようになりました。また、木材に文字を刻むという形から、より安価な、紙と筆を用いた手法に変わっていきました。
もう一点、大きく変わった箇所があります。それは『行う場所』です。
ウィジャボードでは机やテーブルの上にボードを置いていましたが、当時まだ日本には、そのように安定している台座が普及されていませんでした。
そこで人々は、お櫃(昭和のドラマなんかで出てくる、ご飯を保存するための木でできた桶)の底に3本の竹を置き、机として使っていました。
そんな急造の台座がこっくりと傾く様子から日本版ウィジャボードは『コックリさん』と呼ばれるようになりました。
更に、花街の総本山である祇園に古くから根付いていた稲荷信仰と結びついて『狐狗狸さん』と書かれるようになりました。
つまり、アメリカと日本の文化的差異が今に伝わるコックリさんを生み出したのです。
ところで、ウィジャボード自体の誕生には一体どのような背景があるのでしょうか。
ウィジャボードとアメリカ心霊主義
ウィジャボードがどうやって生まれたか。それを伝える前に、まずは当時のアメリカの情勢を説明せねばなりません。
19世紀半ば、アメリカでは『心霊主義』と呼ばれる思想が広がっていました。
心霊主義は別名『スピリチュアリズム』と呼ばれ、人間を構成するのは肉体と魂であり、肉体が消滅しても魂は存在し続け、現世の人間は死者の霊(魂)と交信できるという思想です。
1861年に起こったアメリカ唯一の内戦である南北戦争や世界的伝染病であるコレラの大流行によって引き起こされた国民の社会情勢への不安から生まれた、親しい人の死や自分の死への恐怖という悩みに応えるものとして支持を集めました。
それまでアメリカでは、死の悩みはキリスト教が解決してくれていました。教会で聖職者に話を聞いて貰いキリストの教えを乞うことで、死への恐怖を打ち消していたのです。
ですが19世紀に入り、科学の発達や産業革命による大量消費社会への移行によってキリスト教の権威は衰えていきました。
次々発明されるテクノロジーや移り変わる文化に対して、何も変わらずただ漠然とした言葉を述べるだけの聖職者に価値を見出せなくなっていたのです。
心霊主義はそうした、宗教に頼れなくなった国民の精神的拠り所として広まっていきました。
主義の実証のため、多くの科学者や実業家は霊体と交信することを目的とした道具や方法を考案していきます。
そしてそのうちの一つが、ウィジャボードなのです。
パーカーブラザーズ社によって発売された本製品は、簡単に霊体を呼べる(かもしれない)道具として全米で大ヒットしました。
なお例に漏れず、ウィジャボードを用いたことによる集団錯乱事件や都市伝説も、数多く存在しています。
【まとめ】コックリさん
明治時代に誕生してから幾多のブームを巻き起こし、現在でもなお形を変え人々の心に残っている、いわば日本オカルト界の巨魁『コックリさん』
そんなコックリさんですが、ルーツはアメリカ。それも科学技術の発達から生まれたものでした。
科学の発達がオカルトを生むなんて、なんとも皮肉な話ですね。
皆さんも、身の回りにある不思議な話や都市伝説のルーツを調べてみはいかがでしょうか。きっと、予想外の発見があることでしょう。
でも、一つだけ警告。1からルーツを調べるのは面倒だから、コックリさんに聞いてみよう。なんて考えてはいけませんよ…
何が起こっても、責任は持てませんからね。